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大麻自由化から見えてくる日本社会の解放

麻生結

 マリファナ(大麻)が酒、タバコに比べ人間の健康に与える害が少ないということは欧米では社会的に 認知されようとしている。また覚醒剤、ヘロインなどのような深刻な肉体依存性も、あるいは常用すると 必要量が増えるという耐性上昇もほとんど認められない。日本の通称「ミヤケン裁判」第一審判決文 (1 993年)でも「有害性が認められているアルコールやタバコが罰則をもって規制されずに自由に使用で きるのに、大麻は罰則をもって一律に使用が禁止されていることを比較すると、大麻を嗜好する者にとっ て割り切れない気持ちが生ずることは否定できないところであろう」(東京地裁平成5年特わ 1542号判決) というような司法の見解が示されるに至っている。 このようなマリファナについての科学的な、という か当たり前の評価が日本でもさらに広範に一般化されていかなければならないだろう。TV、新聞、週刊 誌等マスコミでは、いまだに“大麻汚染”などと偏見に基づいた報道がされているが、こういった“偏向 報道”に対しては大衆的な抗議活動を展開していきたい。 その上で、マリファナをめぐる賛否両論の対 立点について、考察を進めていくと論点が精神的・肉体的に有害であるか否かといった「健康問題」か ら、より人間らしい生き方を認める社会、自由で解放された社会とは何かといった問題に集約されていく ように思われる。なぜなら国連や欧米諸国の研究機関による医学から社会学におよぶ多方面の調査・研究 によりマリファナが「健康問 題」としては人体に対し(冒頭で触れたように)酒やタバコほどには危険で ないことがすでに明らかになっているからだ。日本では残念ながらマリファナについて科学的研究が行わ れていないので、こういった諸外国の研究論文や報告を今後、翻訳していくことが取りあえず急務である と思われる。それによってマリファナが精神的・肉体的に有害なものであるから取り締まるのだという 「神話」は崩れていくだろう。そして、その後の<マリファナ解放>の核心的な問題は、大麻の心をオー プンにする、解放する精神作用が既成の社会体制の価値観にとっては革命であるということを指摘してお きたい。ここではそのような観点から<マリファナ解放>を実現したオランダという国家−社会をそ じょ うにのせて若干の考察をしてみよう

<マリファナ解放>の目指すもの

 オランダでは大麻の個人使用が認められている。そして現在、西ヨーロッパの国々ではオランダのドラ ッグ政策を採用しようという動きが広がっている。日本において大麻取締法の撤廃を求める人々にとりオ ランダが<マリファナ解放>に踏み切った国家的−社会的背景を理解することはとても重要なことだと思 われる。なぜなら、<マリファナ解放>とは、大麻取締法の撤廃という法改正の問題にとどまらず、大麻 が解放されるような社会を求めていくことにいきつくからである。もちろん、「大麻を吸っただけで逮捕 されてしまう」という理不尽な現実を一刻も早く終わりにしたいというのが出発点だ。 そこから遡っ て、まずなぜ人は大麻を求めるのかを考えてみたい。すでによく知られているように、大麻には依存性は ないから別になくてもそれで苦しむわけではない。ましてや違法行為であり、栽培で7年以下の懲役刑、 所持で5年以下の懲役刑という重罰であるにもかかわらず、大麻に何を求めているのだろうか? その理 由を尋ねてみると、リラックスするため、ハイの至福感に浸るため、クリアーになったり素直になれるか ら、ただ面白いから、仲間といっしょに 吸って楽しむため………人それぞれでの言い方があるようだが、 それらをまとめて大麻の向精神的な作用を求めているといってもいいだろう。それは楽し さ、やさしさ、 心を開くこと、人と分かち合うこと、癒しといった言葉で示される時間を過ごすこと、そんな生き方だと いうことができる。 一方、この日本の日常の現実はそれらと対極のものだ。細かな規則に縛られ、画一 的で個人の自由を認めない会社や地域社会、競争やノルマに追われる仕事……マリファナと出合った人々 の中には<大麻体験で知った世界>のほうが人間らしい真実で、それまで当たり前だと思ってきた<日常 の世界>は人間を不幸にし、なにか間違っていたのではないか、ということに気づいたと語る人が輩出し ている。 つまり、<マリファナ解放>とはマリファナの服用を自由化することにとどまらず、マリファ ナを解放した社会、人間らしい真実に近づく社会を実現することなのではないだろうか。

人類は国家を超えられるか

 地球上に200あまりの国家がある。領土、人口、あるいは経済力といったファクターでは各国家間で 非常に大きな違いがある。また国家体制にしてもイランのような宗教国家、キューバ、北朝鮮のような社 会主義国家から日本もそれに属している西欧型の民主主義国家までいろいろなシステムがある。それらの 中で、現在のオランダは、領土、人口、経済力ともに特別な大国ではない し、政治システムも特記するほ ど他の国々と異なったものではないごく普通の国のように見える。 しかし、この国−社会では人類の築 いてきた歴史の中でも最も先端的な社会革命がいま起きている。<マリファナ解放>もその社会革命の一 環として位置づけられるべきものなのである。 オランダは日本の九州にほぼ等しい国土に約1500万 人が住んでいる。歴史的には16世紀にスペインの圧政から民衆の力を主体に独立を勝ち取り、世界の海 へ進出、有名な東インド会社の設立をはじめ、17世紀には世界で最も経済的に繁栄した国家となった。 またルーベンス、レンブラントの絵画に代表されるような文化的興隆の絶頂を極めた。オランダは南米、 アフリカ、イン ド、東アジアに植民地をもち、鎖国の日本とも交易をしていた。その後、<世界帝国>と しての覇権はイギリスに譲ることになり、現在ではヨーロッパの一小国として、多くの日本人には風車や チューリップが思い浮かぶぐらいの国といったところだろう。 よく語られるオランダ人の国民性として 現実感覚、素朴、計画性、寛容、商業国民的な打算としたたかさ、節約と清潔好きといった伝統が挙げら れるという。堅苦しい秩序や画一主義はオランダ人の最も嫌悪するところだともいう。また、オランダ は、歴史的に異なる宗教的コミュニティがブロック別社会を 作ってきたが、そのことが異質な社会と共存 していくための妥協や協調といった社会的ルールを築き上げてきたといわれる。奇抜さ、極端な過激さと は縁遠い国民性を土壌にして最も先端的な社会革命が進んでいるのは興味深いところだ。 ルネサンス最 大の人文主義者として知られる16世紀オランダの思想家エラスムは愛と平和の福音精神を基に「国家主 義よりも世界のあらゆる人々と同胞として考えるのがより賢明である」と記している。『平和の訴え』 (1516年)では「もし祖国という呼び名が和解を生み出すというのでしたら、この世界はすべての人 間に共通の祖国ではありませんか。もし血のつながりが友好関係をつくるというのならば、われわれは皆 同じ祖先から派生したものではありませんか。また、もし同じ一軒の家というものがそこにすむ人々の緊 密な関係の絆となるというのでしたら、境界だってすべての者に共通で、われわれをひとつの家族とする 者ではありませんか。このような事実にはっきりと目を開くことこそ、われわれにとってふさわしいこと なのです」と訴えている。警世の筆をふるい続けたエラスムスの脱国家主義とヒューマニズムの思想は現 代に至るまで大きな影響 を与えているといわれている。非常に巨視的に観て、いま人類の社会の底流に は、国家を超えていこうとする動きと、一方で民族国家への凝縮を強化しようとする動きといった二つの 正反対のエネルギーがあるように思われる。政治的に国家を超えていこうとしている動きの代表的な例と して EU(ヨーロッパ連合)が挙げられるが、オランダはその設立時から中心的にEUの構造づくりを推 進してきた国だった。将来、人類がいま述べた二つの潮流のどちらの道を、あるいは全然別の道を選ぶ か、まだわからない。しかし、かつて月に降り立った宇宙飛行士が、そこから地球を見たとき一様に「人 間は皆同じ地球人なんだ。国がちがい、種族がちがい、肌の色がちがっていよう と、みな同じ地球人なん だ」(ジム・アーウイン「宇宙からの帰還」)といった感慨を抱いたという報告を目にするとき、南北問 題、民族・宗教対立など紆余曲折はあっても、人類は国家という枠を超えていく方向に向かうであろうこ とは予測される。暗黒の空間に浮かぶ小さな青い星の中に、あらゆる人間の人生が、人類のすべての歴史 があるということは驚愕すべきことだが、そのように地球全体を外から見る視点を獲得したとき、地表に 人為的に作られた国境線の枠からの視点といった、人類を国家単位に区分する考え方がいかに陳腐かがわ かるだろう。国家という共同性は、過渡的なもので人間にとってそれが桎梏になったら超えて(廃絶し て)いけばいいものなのではないだろうか。 ところで、エラスムスが脱国家主義を唱えていたころの日 本はまだ群雄割拠の戦国時代の幕開けで、その約350年後の明治維新によって初めて国家主義が胎動し はじめる。経済力といった生産・消費の分野では日本のほうが上回っていても、近代国家としての成熟度 はオランダのほうがはるかに進んでいることが納得できるだろう。 オランダは現在、立憲君主国である が、実情は議会制民主主義で国会は二院制と なっている。州議会が選出する定員75議席の上院と直接・ 普通選挙に よって選ばれる定員150の議席の下院がある。すでに述べたように政治システム自体は西欧 型の普通の国であり、物質的な豊かさと福祉や余暇といった生活水準も先進国レベルの生活が保障されて いる。

<死・性・ドラッグ>をめぐる社会革命

 その上で、オランダは人類がいまだ社会の中でどう位置づければよいのか解決できていない<死・性・ ドラッグ>といった面について画期的な方針を実践し始めている。 オランダでは1994年1月から末 期患者が安楽死を望んだとき、いくつかの条件付きで認められるようになった。これな世界でも初めての 試みである。安楽死を認める条件とは、^患者が我慢できない痛みを訴えていること、_患 者が死への希望 を明確に表明していること、`末期患者で他に救済の方法がない、ということに限定したうえでのことであ る。こうした決定は、人間の死について何よりも個人の意思、自由を尊重するという考え方に基づいてい る。このような死をめぐる諸問題は医学の領域だけでは解決できない。どこの国でも安楽死の是非を検討 する際、最後に横たわる問題は人間の命を絶つことが許されるのか統一見解を出さないできた。この問題 は、多数決で決められるものではない。 1995年、ユトレヒト市では「売春ゾーン」を市が設けて管 理するプロジェクトが進行中だという。売春はなくそうにもなくならないことを認めたうえで、街頭での 売春を禁止する代わりに、決められた地域では許可し、そこでは犯罪が起きないようにパトロールするこ とになった。日本で1956年施行された売春防止法は「売春が人としての尊厳を害し」と明記し、当時 としては画期的なものであったが、取締では尊厳を害された側である女性が処罰されるという前近代的な 性格が色濃く残っている。さらに風俗産業では事実上の売春が野放しに黙認されている。 オランダでは すでにポルノが解禁されているが、それらの商品 を売るのはポルノショップに限られており、日本のよう に街の書店にヘアーヌードに掲載された週刊誌が並ぶことはない。近代国家では性の問題はタブーであっ たが、オランダではこの分野でも社会とどう折り合いをつけるかひとつの方針を打ち出したのである。  1985年、オランダではマリファナが解禁されている。ちなみにこの年、オランダに5年以上住んでい る外国人居住者には、市町村レベルでの選挙権が与えられることになっている。解禁の概要はヘロインや コカインなどの依存性の高いハード・ドラッグとマリファナのようなソフト・ドラッグを区別したうえで マリファナ、ハッシシュ(大麻樹脂)の個人的使用(30グラムまで)を許可したのだ。ただし、マリフ ァナの販売はコーヒー・ショップと呼ばれる喫茶店に限られている。政府はコーヒー・ショップの営業許 可をあてる条件として、未成年者(16歳未満)、客との取引量制限(30グラム以下)、ハー ド・ドラ ッグ類は厳禁とする、といったことを守らせている。 このように書くととても厳重な管理下にあるよう に思われるかもしれないが、コーヒー・ショップはオランダ全土に千軒はあるといわれており、アムステ ルダムでは街中どこにでもあってまったく普通の店と変わらない。 以上のような安楽死、売春。マリフ ァナ解放といった問題に対する対応からうかがえるのは<死・性・ドラッグ>といった人間の生の最もプ ライベートな本源的領域と社会システムをどう折り合いをつけていくか、正面から向き合って答えを出し たということである。これまで見てきた安楽死、売春、大麻に対するオランダの基本的な対応は共通して いて、一定の条件をつけたうえで<解放>するという方針を採っている。それは静かな社会革命といって もいいだろう。

<マリファナ解放>とは自由で解放された社会を実現すること

 人間性心理学の理論家、アブラハム・マズローは「欲求の階層論」と呼ばれる説を唱えている。この説 によれば、人間のいろいろな欲求は階層に分けら れ、ある特定の欲求が満たされたとき、はじめて次の階 層に属する欲求の欠如に気づくという質をもっているという。階層モデルの一番底部に呼吸や食事、排泄 という「生理的欲求」がおかれる。それが満たされたとき次の身の危険から守ってくれるものを求めると いう「安全欲求」が生じ、さらにそれが満たされた後、社会や国家など集団に帰属したいという「帰属欲 求」が生じ、またその次には他人に認めてもらいたいという「自己評価欲求」、その後に自分が固有の存 在であること、生きがいを実感したいという「自己実現欲求」、そして最後にいまの自己の枠を広げ、そ れを超えたいという「自己超越欲求」に至るという。人間の欲求は、最初は生物学的なものからだんだん と社会的なもの へ、さらには自己実現からそれを超えるものへと向かうというのである。 オランダで起 きている社会革命とは、この「欲求の階層論」を社会が保障することと言い換えてもよいだろう。衣食住 をはじめ先進国としての生活の豊かさを達成した後、次に人々が求めるのは「自己実現欲求」であり、 「自己超越欲求」である。それらは人間個人の欲求であるが、それを社会が保障するということは、結 局、個人の自由を何よりも尊重し、認めることである。日本を筆頭に、他の多くの国では、社会秩序、社 会全体の安定のためには個人の自由も制限されることが肯定されている。当然ながらオランダがそういっ た秩序や安定に無頓着なのではない。問題は社会の秩序や安定と個人の自由の両立のための線引きをどこ でするかである。それは最大限の個人の自由を保障するという方向性があるか否かが違いなのではないだ ろうか。   大麻をはじめとする意識を変えるドラッグは、人間の心、精神といった自由意思の根底に関 わるものである。大麻を取り締まるということは、換言する と、人間精神の自由を取り締まるということ なのではないか。精神というと、一般的には思想・信条、イデオロギーや信仰のことを指しているように 思われるかもしれない。事実、近代以前の社会では思想・信条の自由は認められていなかった。キリスト 教の異端審問からソ連のスターリン主義まで例を挙げたらきりがないが、その体制が掲げる宗教やイデオ ロギーに異議を唱えることは許されなかった。現代の日本は、一見すると思想やイデオロギー、宗教につ いては(それに基づき法秩序を破壊しない限り)自由なように見える。 ところで、思想やイデオロギー として確立されているものは、人間の精神活動のうちで主に言語やそれを組み合わせた論理から成り立っ ている。一方、大麻の向精神作用、つまりハイが人間精神の自由にかかわるというとき、それはもっと心 の奥底、肉体と精神が未分化なところまで遡った領域からの衝動なのではないだろうか。先ほど、大麻に 何を求めているのだろうかと探ったときの見解が「リラックス、至福感、クリアー、素直、面白い、楽し い」といった表現で語られるのは、この衝動が満たされた状態のことではないだろうか。それを称して意 識の解放(自由)とい うこともできる。この意識の解放を求める衝動は、社会や文化を超えた本源的な衝 動である。大麻は安全に、かつ簡単に、そして最も速やかに意識の解放をもたらしてくれる。 人類の歴 史を差別や抑圧からの解放の過程としてとらえると、その本源的衝動は自由・平等を掲げ民主主義にもと ずく国民国家を築き上げた市民革命の次にくる革命として顕現されるに違いない。ヨーロッパの市民革命 は、社会的束縛から自由になれば人間は全面的に解放されるという理想に基づいていた。社会主義はそれ を純化させた実験だった。われわれのいま生きている現代の社会も市民革命後の社会の延長線上にある。 しかし本当の意味での人間の解放は社会的解放の先に、人間の身体領域、魂の深層領域といった内面的な 精神の解放抜きにあり得ないことが明らかになってきた。それは数千年のスパンで進行している過程であ る。今世紀の30年代アメリカを震源とし、50年前からは日本に移植された(1948年、占領下での 大麻取締法制定)<大麻弾圧>はそれに比すと一時的な逆流にすぎない。大麻解放は本当の意味での人間 の解放にとって大きな意味を持っているのではないだろうか。 日本社会の現実は、前述の ような経済優 先と管理・画一化・秩序の牢獄である。このような社会の基で、<マリファナ解放>だけが単独で認めら れるなどということはあり得ない。大麻の合法化とは、より人間らしい生き方を認める社会、自由で解放 された社会を求めていくことと一体のものなのである。